2019年11月19日火曜日

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朝晩は肌寒く、11月も後半に差し掛かり、ようやく冬の近づきを感じるようになってきた今日この頃。先月は更新しそびれてしまったので、そのぶん少し長めの記事になった。

突然だが「機玄」という言葉を耳にした事があるだろうか。このところ一部の界隈では話題に上がっていたので、ここの読者ならすでに耳にしている方も多いかもしれない。筆者も兼ねてから気になっている存在だったのだが、最近になってようやく入手し、読むことができた。
そもそも「機玄」とは、西尾音吉氏が1983年に出版した書籍の題名であり、同時に氏が理想とする模型を表すために考案した造語だ。この本には、機玄という境地に至った経緯が、自身の模型歴や製作技法、価値観、思想などを交えつつ語られている。その解釈は読み手によって大きく変わるらしく、読む価値は無いと言う人から一定の理解は出来るという人まで様々で、とても興味深い。とは言っても、これを読み物として楽しめる人は限られるであろうことは付記しておく必要がありそうだ。
さて、どんな内容であるのかが気になるところだとは思うが、正直に言うと要約するのは非常に難しい。というのも、その文面には抽象的な表現が少なくなく、かつ散漫で、読み手によって受け取り方が大きく変わってしまうからだ。強いて要約すれば、実物の再現を求めるだけでなく、再現するディテールを取捨選択し、個人の解釈を作品に落とし込む。また、量産化に適した機械加工を避け、手加工によって綺麗に仕上がる工夫を盛り込みつつ製作し、自らの手で創造する。そうした経緯を経て、実物を再現するのに止まらない、その人ならではの作品が出来上がれば、それは絵画,彫刻,建築,工芸などと並ぶ芸術作品になり得るのではないか。という趣旨の内容が綴られている。また、著者は日本的な簡潔さ(本文中に「能」などの例えがよく登場する)も理想として掲げている。
個人的な感想としては、思っていたよりも筋が通っていて、完全とは言えないまでも主張の大筋を理解することは出来た。ただし、自分がそれを実現できるかと言えば、答えは否だ。当方はそのような美的感覚を持ち合わせていないし、作品を作るにしても、芸術を目指しているわけではなく、どちらかと言えば実物と見まごうような模型を目指しているからだ。こんな事を西尾氏の前で言おうものなら日本人の心を忘れたのかと一喝されそうだが、事実なのだから仕方ない。
言うまでもないが、このようなスタンスに絶対の正解は存在しないし、優劣をつけようとするほど野暮なこともない。有り体に言えば「好きにすれば良い」だろう。

人によって、重要視する要素は異なることと思う。それはディテールであったり、色彩であったり、音であったりと様々だ。個人で楽しむ分には自らの好きな要素を突き詰めれば良いが、こと製品化となれば話は別だ。最多数派であると思われる、ディテールや印象把握は最低限抑えておかないと、新たな要素を詰め込んだところで空振りに終わってしまう可能性が高い。実にもったいないことだ。
商業である以上、コストダウンはある程度仕方ないと思うが、例えばパンタグラフを例にとろう。通常、電車であればパンタグラフは上げた状態で走ることが多いが、車両によってはそうでない場合もある。例えば電気機関車であれば交流区間では2基のうち1基しか使わないし、霜取り用のパンタグラフを備えた車両であれば冬季以外は畳んだ状態で運行される。何が言いたいかというと、こういう場合は「畳んだ状態」も実物のような状態になる、すなわち上枠と下枠の接点が集電舟よりも下になって欲しいのが心情ということだ。しかし、廉価な製品の多くはそうなっていない。パンタグラフが1基しかない普通の電車なら良いが、先に挙げたような車両でこうなってしまっては、興ざめする人も多いだろう。これに限らないが「この模型を手がけた人は分かって作っているなぁ」と思える模型を、私はよく「心のわかった模型」と表現している。心のわかった模型は、知識のない人にもそこはかとなく良さが伝わることが多く、一般受けも良い。メーカーに限らず、個人の作品にも同じことが言えると思う。具体的な例を挙げるのは難しいだけに偉そうなことは言えないが、そんな風に思ってもらえる作品を心がけたいものだ。

作品といえば、11月発売のTMS(2019年12月号)には、1年の休止を経て開催されたTMSコンペの結果発表が掲載された。私事ながら、拙作のDC20はありがたくも佳作を受賞した。そもそもコンペは意識していなかったものの、自分の力だけで作り上げたものでも無かったので、嬉しさと悔しさと申し訳なさが同じくらいの割合で渦巻いていて、ちょっと複雑な心境だ。工作力や仕上げの面で入選作に及ばないのは自明だが、準佳作には私以上の工作力をもって仕上げられた作品もあるように思えるので、サウンドやウェザリングなども含めた、総合的な判断での佳作だと思っている。そういう意味で不満は全く無いので、そこは理解してもらいたい。
このようなコンクールやコンペには上位賞があり、その受賞枠の数も決められていることが多いが、その判定基準は大きく2つの傾向に分けられる。過去の受賞作品を考慮するか、考慮しないかだ。後者の場合は必ず所定数の受賞者が生まれるが、前者の場合はそうでない。平均レベルが下がってくれば、上位賞の該当数は減少する。ご存知の方も多いと思うが、TMSコンペは後者だ。
過去の受賞作品を考慮するとはいっても、これまたいくつかの傾向に分けることが出来る。TMSコンペのTMS賞、特選、一部の入選においては、作品の仕上がりだけでなく、その時代において革新的であるか否かも考慮して決めているようだ。分かりやすく例を挙げれば、2年前の特選と同じ方向性・クオリティの作品でも、2年経ってしまえば特選には選ばれないという事だ。TMSコンペの初回は1981年だから、それから進化し続けてきた事を考慮すると、そうそうTMS賞や特選が出せないのは納得なのだが、かといって余地が残っているのかを考えると頭が痛いのは、なにも応募者だけでなく編集部も同じであるような気がする。触れている人を見かけなかったが、今回の募集要項に特選が設定されていなかったのも、そんな事情を考慮したからなのではないだろうか。

それはさておき、受賞作の傾向から判定基準に関して、もう少しだけ私なりの考察を書いておきたい。まず、完成品加工、キット加工、自作など、製作方法に関してだが、これは基本的に考慮されていないと思う。あえて差が生じるとすれば、甲乙つけがたい作品が横並びになった時、はじめて自作の方が上になるくらいの、微々たる差だろう。これは車種にも言えそうで、蒸気機関車だろうが電車だろうが気動車だろうが、この違いはほとんど考慮せず、あくまでも最終的に形となった、全体のまとまりや作り込み、その仕上げのバランスを見て決めているようだ。そういう意味では、パーツ点数が多くバランスが崩れやすい制式蒸気などは、いくらか不利かもしれない。講評を読む限り、もはや電車や気動車といった車両では床下まで作り込むのが“当たり前“で、ボディの作り込みだけでは評価されないと見て間違い無いようだ。(ボディが素朴であれば床下機器も素朴な方がバランスが取れていて好ましいものの、その方向性で作り込みされた作品に対抗するのもまた難しそうだ。)
これに通じる事として、製作技法や素材へのこだわりも、これまたあまり評価されないようだ。もっと今時の表現をすれば「縛りプレイは評価されない」と見て良いだろう。自作だから評価されるとは限らないのは、ここに起因している。自作作品の方が上位に多いのは、拘りの強い方であれば分かると思うが、単純に「自作した方が出来が良い」からであって、自作という行為自体は評価されていないようだ。

次に、あくまでも先達から伺った話だが、コンペ開催は掲載作品の募集も兼ねている事から、作品とともにデータシートの内容も重要視されるそうだ。記事としたときに読者が求めていること、製作途中の写真や、一般化できそうな技法、テクニックが記事に盛り込めそうであれば、評価が高くなるのも納得だ。そういう意味では、苦労を伝える努力、アピールも面白いかもしれない。たとえは3Dデータから作り上げた作品であれば、そこはかとなくバランスの良くない状態の画像を添付したり、その際の造形の調整、どのようにまとめ上げていったのかが分かる資料が添付してあれば、それは評価に繋がるかもしれない。あと、ここに書いて良いのかわからないが、基本的には試走も行なっていないらしいと耳にした。動きも売りとなる作品であれば、記録媒体に動画を添付しておいた方が良さそうだ。
長々とコンペについて書いてきたが、最初に「コンペは意識していなかった」と断ったのは、つまりはそういう事だ。これらのような傾向に対する対策を練り、作品に落とし込まなければ、TMS賞や入選を狙う事は出来ない。仮に意識せずに受賞出来ているのであれば、それは真の天才であって、我々凡人には縁のない話だ。

なかなか有意義な経験だったので2年後もまた出品してみようと思うけれど、このままでは同じく佳作が精一杯だろうなぁと思う。それでも出品してみる価値のある催しだと思いますよ。と周囲にお勧めして、今回の締めくくりにしたい。

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